All that is experienced is experience, but there is no independent self that experiences and no independent object, other or world that is experienced. There is just the experiencing of experience, and it is ‘experiencing’ that experiences experience.

中毒、ポルノ、似非アドヴァイタ (Translated)


Q. このところしばらく、自分の行動の一部と、アドヴァイタの教えについての自分の理解とを調和させるのに苦労しています。この道が、言葉では言い表せないほどの成果を生み出したことはまったく明白なことです。でも、とても正直に世俗的な意味で言うと、私は色欲とポルノへの中毒と格闘してきてもいます。

 

このことについて私は明らかに大きな葛藤をかかえています。この中毒性の貪欲な行動は、アドヴァイタが指している真理とは全く合致していないように私には思えます。でも、ポルノを見ようという衝動が起こると、「行為者は存在しない」と言う説得力のあるセリフをマインドが作り出します。これは自動的に起きることだ。抵抗することはない。すべては無意味だ、などと。

 

そして私は衝動に従い、その後で、マインドはこうした行動をさらに多くの偽の理屈で、自分は<気づき>を一度も離れたことはないという虚偽の主張をしながら、正当化します。これには、もちろんあらゆる種類の罪悪感、不適切さや他の苦しい感情が伴います。常識的に考えれば、何かが欠けていると思います。

 

いろいろないわゆる賢者、聖人、覚醒したグルがスピリチュアルな「真理」の名のもとに不適切な性的行動を正当化した多くのストーリーを耳にしたことがあります。

 

私たちは、スピリチュアルな探求者として、どうしたらこの悲劇的な落とし穴を避けることができるでしょうか?これが受容の道であり回避の道ではないという深い理解を私たちがしている場合は特にですが。なにか実践的なアドバイスをいただけますか?

 

愛と感謝をこめて。

 

A. どんな種類の中毒も、それが不適切な性的行動であれ、アルコールであれ、ドラッグであれ、喫煙であれ、もっと穏やかな形の行動であれ、常にその源泉は、分離している、制限されている、特定の位置を持っているという信念と、もっと重要ですが、そうした感覚にあります。

 

この分離という信念や感覚が現れる最も一般的な形態は、現状の微妙なあるいはあまり微妙でない形での拒否であり、それは「いま起こっていることは私には好ましくない」や「いま起こっていることと違う何かが私には必要だ」というものです。

この二つの態度、昔から恐れと欲望と呼ばれるものですが、これらは見かけの上で分離した自己の二つの側面です。これらは、「あるがままに対する抵抗」の最も一般的な形のうちの二つです。

 

言い換えると、「見かけの上での分離した存在」、「あるがままに対する抵抗」、そして様々な目的物、物質あるいは経験を通した「幸福の探求」は同義です。

これら三つの状態は、実のところ、ひとつの同じ状態であり、「無知」あるいは「経験の本質の無視」と呼ぶこともできます。

 

従って、「見かけの上での分離した存在」、「あるがままに対する抵抗」、「幸福の探求」は、経験の非二元性の経験的な理解とは相容れないものです。

 

あなたはそれをはっきり理解し、その「理解」が、あなたが正確に似非アドヴァイタであるとしたものの落とし穴からあなたを守ることができます。

 

では、この「あるがままへの抵抗」の起源を見てみましょう。というのは、もし他のことから始めると、たとえば二次的な原因から始めるとすると、問題の根源にたどりつくことが出来なくなり、そうすると遅かれ早かれ、探求はしばしばより悪性なものとして再び現れることになるからです。

 

もっと言えば、「中毒」という言葉は、慢性で破壊的になった、探求のより悪性の形態を正確に言い表すためのものです。

 

「あるがままへの抵抗」は、私たちであるものが、それは気づきですが、身体に制限され、身体の中に位置しているという信念に起源をもっています。

 

この私たちの<自己>と限定された物体(それは、調べてみると架空であることが明らかになります)との架空の同一化が、見かけ上の存在を作り出します。<気づき>の本当の「私」が、想像された分離した存在の制限された「私」になってしまいます。それは、私たちは身体であると考えて感じるということです。

 

この見かけ上の存在は、断続的な物体から作られたようにみえるものであり、当然ながら不安定で、常に変化と消失の危機にさらされています。そのため、恐れがその中心に存在し、当然の結果として欲望が生じます。

 

恐れは、この断続的な感覚(身体がこの瞬間にその中に現れている形)が消えるときに「私」がそれと共に消えるという感じから生まれます。そして欲望は、私たちが自分であると信じ、感じているこのはかない存在を永続させようとするために、その存在を実証する明らかな必要から生じます。

 

まず、この恐れと欲望は最も当たり障りのない行動形態、私たちのほとんどがよく知っているような、不必要な思考、ほとんど止まることのないおしゃべりや解釈という形で現れます。

 

この当たり障りのない解釈は、「あるがままの拒否」のもっとも単純な形です。それは、「あるがまま」からほぼ常に注意をそらすことを確実にする、継続的で目立たないおしゃべりです。これが第一の中毒です。

 

「あるがまま」はとても退屈で地味でたんたんとしていて注目するに値しないと見なされ、思考は、その代わりに現在の退屈さや不快感から逃避できる夢の世界を提供します。

 

私たちの思考を一度でも誠実に調べてみると、その大部分には実用的、知的あるいは創造的などんな意味も一切ないことが分かるでしょう。思考は、「あるがまま」の退屈さから注意をそらすための、ある種の詰め物であるにすぎません。

 

過去や未来に関する私たちの思考の圧倒的多数は、こうした形の思考を正当化し永続化させているにすぎません。

 

しかし、こうした種類の思考は無難であると見なされるからこそ(身体にも社会にも害をなさないという意味で)、それはほとんどの部分が見過ごされ、気付かれず、一般に私たちの文化ではまさに自由なままにされています。

 

そのため、これはほぼ全員が大部分知らないうちに巻き込まれている中毒の最も一般的で効果的な形になっています。そしてそこに、分離の感覚を生かし続ける効果的な働きがあります。それゆえ、それは見かけの上での分離した自己にとっての完璧な避難所です。

 

けれども、私たちが成長するにつれ、この微妙な思考は心配や苦しさや不快さを寄せ付けないようにするには十分なものではなくなり、より強い形の回避に向かい始めます。

 

こうしたより強く効く回避の様式は、私たちがよく知っている一般的な中毒の形態です―働きすぎ、過食、過度の活動、金銭中毒、テレビの見すぎ、アルコールやタバコやドラッグやポルノの過剰な使用等々―。

 

こうしたものすべては、単に回避の戦略であり、「あるがまま」の回避、「これ」の回避、「いま」の回避であるにすぎません。これらは分離した自己という感覚にとってはなじみの避難所なのです。

 

社会は、問題の中毒行動が社会への直接の脅威になるかどうか、こうした行動のそれぞれが合法かどうかに基づいて一定の線を引き、それによってあるものを大目にみたり、他のものは非難したりします。

 

ただし、無知の視点からすると、こうした中毒行動は単に回避と否定の戦略であるにすぎません。要するに、こうしたこと一つ一つは、根源にある回避の変形であるに過ぎず、「私」という思考を中心に展開するひっきりなしの思考です。

 

私たちが既にしたように誠実に自分の経験を見てみると、この思考と、身体レベルの感覚にあるそのより難しい片割れが、それに続いて起こる中毒という形態の表面下あるいは背後に常にあることを発見するでしょう。

 

それは必ず「私」、身体から始まります。それが、中毒が和らげようとしているすべての苦しみの根源です。

 

どんな理由であれ、社会が特定の中毒の形を他の中毒の形よりも強く非難するとき、私たちは途中で行動を変えることを受け入れるかもしれませんが、私たちの中心では、この不快さと回避と拒否の炎と、それによって必然的に起こる幸福の探求(それは中毒の別名です)は続くでしょう。そして、問題の根っこにたどりつくまで、真にやすらぐことはないでしょう。

 

問題の根源にたどり着くということは、分離した「私」の源泉に行くことを意味し、単に分離した「私」という信念だけではなく、より重要なことですが、分離しているという感覚をみることです。

 

見かけの上で分離した自己の仕組み全体が微妙なところまですべて理解されたときに初めて、私たちはそこから解放され、それは、分離の信念と感覚という覆いが見かけの上で取り去られ、<気づき>が「意識して」それ自身の中にそれ自身として立ち上がるということです。

 

あなたが理解したように、私たちの信念や感覚の上に「うん、まあ、すべては等しく<気づき>の表現なんだから、何も問題はないさ」というベニヤを貼るだけでは十分ではありません。こうした表面的な考え方は、自分の仮面にスピリチュアリティというベニヤを重ねた見かけ上の分離した自己にとっては、より安全な避難所のひとつです。

 

分離の感覚は、それ自体の妥当性の実証と正当化のためならば何でも利用する達人であり、表面的なスピリチュアリティは見破られにくい形態のひとつです。そのような訳で、非二元という新しい宗教があらわれます。

 

でも、あなたの場合は異なります。

 

あなたの場合は、ポルノとセックスに対する中毒が、より深く微妙な不安、それは分離した自己のものですが、その不安の兆候であることをはっきりと誠実に理解しています。

 

説得力があって見たところ隙もない非二元の論拠でこうした中毒行動を正当化しようとするマインドの試みが、真の理解の表現ではなく、中毒の正当性を立証しようとして非二元の教えを巧みに扱って利用しようとするマインドの企てであることをあなたは理解しています。

 

この点において、マインドの偽の論理についてのあなたの分析と、衝動、行動、罪悪感、そして正当化のプロセスについての見解は完全に正しいものです。

 

では、どうしたらいいでしょうか?

 

問題の核心に向かってください―それは、見かけ上の分離した自己あるいは<気づき>の見かけ上の覆いです。このふたつは同じことです。

 

この両方をマインドのレベルで探求してください。つまり、私たちが持っている、分離した自己の存在を支えているようにみえる信念をです。あなたは優れたマインドをもっています。それを自分の経験の探究につかって、あなた自身で結論に到ってください。そのような分離の信念にはどんな経験上の証拠も絶対にないということを理解してください。

 

この確信は、分離した自己の真の住処である感覚のレベルで、分離感覚をより深く探究させることになるでしょう。

 

私はこの深い探究について沢山のことを話し、書いてきましたが、ここでは詳しくそのことを書くのはやめておきます。この探究なしでは非二元はほとんど場合はただの信念のままとなり、その結果、真の非二元の理解に固有なものである平安と幸福は姿をくらましたままとなって、さらなる探求を必然的に強いることになるでしょう、ということを言っておけば十分です。

 

アルコールやタバコやドラッグとは対照的に、ポルノ中毒についての良い知らせは、その中毒が主に思考と感覚のレベルにあって、身体には継続的には影響しないということであり、飲酒や喫煙やドラッグの場合はしばしば取り返しがつかなかったり、少なくともそうしたものにふける衝動が消えた後もずっと影響が続くということです。

 

それでもやはり、上に書いたことを手助けするために、ひとつの簡単な身体的な「規律」をおすすめします。

 

ポルノを見たいという衝動が起こるたびに、ただちょっと止まってください。最初はたったの30秒であっても、あなた自身と欲求の充足との間に小さなスペースを作ってください。時が経つにつれて、このちょっと止まる時間の長さが長くなり、そのうちあなたは自分が言わばこのスペースに常にいることに気がつくようになるでしょう。

 

でも、そもそもこのスペースが穏やかなものであるとは考えないでください―多分そうはなりません!たいがいは、衝動(それは実のところ分離した自己の裸の顔であり、分離した「私」の生の姿です)はそれが解放されないことに気づくと、おそらくは全力をあげて自分を主張するでしょう。反乱を起こします。

 

欲求には全く問題はないとか、あと一度だけだからとか、これは<気づき>の表現なのだとか、行為者はいないのだとか、そういう形であなたを説き伏せようとする思考に気を配るだけでなく、より重要なことは、どうにかしてほしいとか解放してほしいと求めながら沸き上がってくる身体のなかの不快な感覚に注意を向けるということです。

 

思考がすべて分離した存在、それは見つけようとすると存在しないことが分かるのですが、その分離した存在を中心に展開していることを理解してください。ほとんどの場合、この確信に到るためには理性的なレベルで徹底的に調査を行うことが必要です。

 

もしこの確信に到らない場合、あなたの思考のなかで見かけ上の分離した「私」は至極元気であり続け、その結果、自分の感覚を十分に探究するという決意をもつことはできないでしょう。

 

分離した存在が存在することを証明しているような思考から解放されると、感覚はその正体を露呈し、それが身体的な感覚そのものにすぎないことが分かります。

これらの身体的な感覚は、実のところ中立的です。身体的な感覚が見かけ上の否定性(さらにそれによって起こる、中毒行動によってそれを避ける必要)をもつのは、それが分離した自己という信念と合わさったときです。

 

この信念が奪われると、感覚は当たり障わりのない身体感覚というその正体を見抜かれ、そのようなものとして私たちに対し無力となり、つまりそれら自身のために私たちを動かす力を失います。

 

はっきりと理解されるということは、見かけ上の自己とその戦略的な行動というとりまきには耐えることができないことの一つです。この優しくて介入的でない、でもしっかりしたやりかたに対しては、思考と身体のなかにとてつもない抵抗が生じるかもしれませんし、おそらくは生じるでしょう。

 

しかし、マインドと身体の両方のレベルで、分離した自己の仕組みが本当に理解されたとき、その土台は取り除かれ、生き残りのために分離した存在に依存していた行動のパターンは時間とともに衰え、消えるでしょう。

 

そう言っても、こうした中毒はとてもパワフルであり、ほとんどの場合、この深い探究的な方法は、平安と理解をすでに確立している人と共に時間をかけて行うのが最も良いでしょう。

 

結局平安と理解を促すのは探究ではなく、調査と探求をゆっくりと展開させ、見かけ上の分離した自己とその思考と感覚と行動の全パターンをほとんどの場合それ自体のなかに言わば再吸収することを可能にする平安と理解なのです。

 

最後に。こうした思考や、もっと重要なことですが、不快な感覚が生じるのに任せながら座っているとき、微妙なものであっても隠された意図を一切持たず、また、「それらを取り除く」ために「これを行う」ということをしないことは大切です。それはほぼ同じことです。

 

思考と感覚の一団全部が、あなたの受け入れと公平な物腰のなかで行動や振る舞いを見せるのをただ許してください。時間とともに、それらの凶暴性は徐々にやみ、分離した存在のための思考や感覚のもっともっと微妙な層が明らかになり、私たちは前に話したほとんど当たり障りがなく目立たない小さな思考に戻ります。

 

これが、分離の感覚、「エゴ」が、見かけの上でもっとも穏やかで最も気づかれにくい形態です。これにとても敏感でいてください。「あるがままの回避」のもっとも巧妙な形態に気をつけていてください。それはかわいくてフワフワした動物の赤ちゃんですが、後に怪物に化けます!

 

時間がたつにつれて、私たちはもっともっと敏感になり、私たちの思考や感覚、そして行動は言うまでもありませんが、それらのどれだけが「あるがまま」を避けるためだけに作り出され、「これ」と「いま」を避けるためだけに作り出されているのかを理解します。

 

こうして、オープンで裁くこともなく避けることもなくすべてを受け入れることで、時間とともに「私」は<気づき>の座の適切な場所に戻り、真の自己のなかに真の自己としてこのようにとどまることの当然の結果として、私たちの思考や感覚や行動は、真の自己に固有の平安と幸福とだんだん再調整されていきます。

ご多幸をお祈りして愛をこめて。