All that is experienced is experience, but there is no independent self that experiences and no independent object, other or world that is experienced. There is just the experiencing of experience, and it is ‘experiencing’ that experiences experience.

行為は行為者の存在を意味するのか? (Translated)


Q. 私は憂鬱や自己批判的な思考といった「否定的な」感情や身体の痛み・緊張を長いこと経験してきています。それについて質問があります。

 

A. 肉体的な痛みと心理的な苦痛は関係するように見えるかもしれませんが、それらは二つの異なるものであることをはじめに言っておきたいと思います。

 

もしあなたに何か物が落ちてきて偶然当たってしまったとします。その結果怪我をして痛みが起こったとして、それが心理的な原因によって起こったと言うことはできません。そのような痛みには身体的なレベルで適切に対応する必要があります。休息したり、医者にかかったり、アスピリン(鎮痛薬)をのんだりといったことです。

 

しかしながら、心理的な苦痛は身体に収縮を引き起こすことがあり、それが長期間続くことで慢性的な痛みが起こるかもしれません。このような場合、身体的な痛みを緩和するための方法がとられるかもしれませんが、その本当の原因は、その発生の源にある心理的な苦痛を引き起こしている何らかのものです。

 

もし私たちが心理的な苦痛の原因を追跡すると、それは常に、私たちというのは限定されて特定の位置にある肉体の中にいるとかそうした肉体そのものであるという信念や感覚によって引き起こされていることが分かります。

 

Q. 私は、「気づきとして生きる」とか「あるがままにゆだねる」とか「自分が気づきであるということを知る」といった考えと格闘してきました。私はこれらのことに、私自身の胸の激しい痛みとの関連において取り組もうと長い時間をかけて努力してきました。そして当然ですが「努力する」ということは行為することを意味していて、それは何らかの行為をする分離した個人というものを意味します。そしてその分離した存在はそもそも存在していません。私は立ち往生してしまっていることに気づきました。「私」がどんなことをしても、痛みと憂鬱の経験は続き、ものすごく苦しんでいます。これは明け渡しと受容ということが起こるかどうかの恩寵次第だというように見えます。どのような「努力」もより悪影響を及ぼすように感じます。それなのに努力は続きます。

 

A. もし私たちが苦しんでいるとするならば、見かけ上の「私」ははっきり存在しています。この見かけ上の「私」が苦しみの原因です。

 

しかし、もしこの見かけ上の「私」として、「努力は行為を意味し、それは分離した個人が何かをしていることを意味する。そして分離した個人はそもそも存在しない」といった考えを私たち自身に重ね合わせるならば、探究されるべき苦しみというものに対して行える一つのことを自身から奪うことになります。

 

他の言葉で言えば、もし「分離した個人は存在しない」ということを知っていれば、私たちは苦しんでいないでしょう。苦しむと同時に「分離した個人は存在しない」と理解していると主張することはできません。この二つの立場は両立しません。

 

この場合、「分離した個人は存在しない」という観念は単なる観念であり、不二一元性というものが私たちが抱くただの新しい宗教になってしまっています。

 

しかし苦しみは「分離した個人は存在しない」という観念よりもっと強いので、その結果として私たちはせいぜい落胆することになるか、極端なケースにおいては怒りを覚えたり絶望したりします。

 

苦しみながら、そこからの出口の存在を認めないという状態です。

 

従って、私からの最初の提案は、あなたが個人的で限定された特定の位置をもつ存在であるという根深い信念や感情があなたの苦しみを引き起こしているということをはっきりと理解してくださいということです。

 

あなたは「努力は行為を意味し、それは何らかの行為をする分離した個人を意味する」と言います。これは非常によくみられる誤解です。

 

一杯のお茶を淹れること、山に登ること、歯を磨くこと、クルマを運転すること、ジョギングに行くこと、楽器を練習すること、そうしたことはすべて努力(試み)を必要とする活動(行為)です。しかし、そうした活動、実際にはすべての活動を、分離した存在であるという感覚なしで始めることは全く可能です。

 

あなたが立ち往生しているのは、苦しんでいると同時に、不二一元を表面的に信じることで苦しみを緩和する可能性を自分自身から奪っているからです。にもかかわらず、あなたはこのような質問をしています。このことは、何もできることはないということを、幸いにもあなたは本当には信じていないということを示しています。

 

あなたは「明け渡しと受容ということが起こるかどうかの恩寵の問題でしかないというように見えます」といいます。すべてが恩寵次第であるということは本当です。あなたがこの質問をしたいと思った衝動も恩寵によるものです。あなたが何かをしたいという欲求は恩寵です。この返答も恩寵です。なぜ、恩寵が明け渡しや受容という形でしか来ないと決めつけるのでしょうか?

 

苦しんでいるこの存在というのは誰であるのかをシンプルに正直に自分に問うてみることをおすすめします。私たちが私たち自身であるとおもっているこの存在は、これらの言葉を見ている存在です。それはこれらの言葉を読み、精神や肉体や世界に現れている他のいろいろなことを経験している「私」です。

 

あなたの注意をこの存在に向けてみてください。それを見つけてみてください。それは肉体の中や、頭の中や、見ている目の後ろや、感じている胸の中に見つけられますか?見つけられません!それが紛れもなく存在していて意識をしていますが、私たちが「私」と呼んでいるその存在は対象としてはどこにも見つけることはできません。

 

あなたが知る知らないに関係なく、あなたはその存在です。あなたは何であるとしてもこれらの言葉を見ている存在であるということは明らかなことではないですか?あなたが常にそれであるということをはっきり理解してください。それでいることには何の努力も必要ありません。それでいないようにする努力ならできるかもしれません。その努力の別名は「苦しみ」です。

 

もしこれらの言葉を見ている主体が何であるのかを見ようとすると、それがそこにあって気づいているということ以外は何も言えないことが分かるでしょう。それに私たちが投影している他のすべての性質がただ真実でないということを理解することによって、そららが消えるのを単にそのままにしてください。

 

あなたの胸の痛みは<気づき>が気づいているこの空間に現れています。そのままにしておいてください。他のすべてのものと一緒にそれを歓迎してください。そのすべてが生じてあなたの中で起こるのに任せてください。

 

<気づき>として生きるというのは、あなたが既にそれであることに気づき、その知るものとして考え感じ行動することを単に意味しています。<存在>に明け渡すことということは、あなたが既にそれであるものを知ることを単純に意味しています。

 

「<気づき>として生きる」ということがより悪影響を及ぼすことはありえません。ただ、これまで行ってきたような否定と回避という戦術を使わなくなったことによって、以前は抑圧されていた感情が表面化しているのかもしれません。その結果として苦しみがよりひどくなったように見えているのかもしれません。が、実際にはそうではありません。ただそれを避けなくなっているということです。

 

<気づき>として生きたり、あるがままにあることによって、あらゆる種類の恐れや不幸が生じてくることがあってもおかしくはありません。そうなったら、そのままにしてください。それらはシステムの中でしかるべき働きをしています。それらが生じる愛情のある空間でいてください。それらのことをどうにかしようとしないでください。

 

忍耐強く、揺るぎない態度でいてください。あなたの胸の痛みが中立的な身体上の感覚でしかないことを理解してください。それをそのままにしてください。もしあなたが分離した存在であるという信念がその感覚を支えることがなくなると、それは生き残るための一つの要素を奪われます。それはあなたの抵抗です。そしてそれは時間と共に小さくなるでしょう。

 

もしここに書いたことの中で理解できないことや更に質問がある場合はまた連絡をしてください。