All that is experienced is experience, but there is no independent self that experiences and no independent object, other or world that is experienced. There is just the experiencing of experience, and it is ‘experiencing’ that experiences experience.

何かすべきことがあるのでしょうか? (Translated)


Q. 多くの師たちは、経験の本質というものを悟るために見かけ上の個人であるあなたができることはありません、と言います。私には、この見かけ上の個人との同一化が起こっている限りは探求するより他に選択はないように見えます。あなたの見解を聞かせてください。

 

A. もし分離という感覚、「私」というものが肉体の中にあるとか肉体として存在するという感覚があるのであれば、その信念や感じは私たちの経験の真実を覆い隠します(実際には決して覆い隠すことはありませんが、覆い隠しているように見えます)。私たちの経験の真実は、私たちは無限の意識であり、それは観照者であると同時にすべての経験の内容であるというものです。

 

この私たちの本質が見かけの上で覆い隠されていることによって、本質に本来備わっている平安や幸福もみかけとしては覆い隠されます。

 

幸福が覆い隠されるということは、苦しみとして知られています。そして苦しみは本質的に幸福の探求です。もし幸福を求めることがなかったら、別の言葉で言えばもし私たちが現状に完全に満足していれば、そこには苦しみはありません。従って、幸福が覆い隠されること、苦しみ、そして幸福の探求はすべて同じことを示しています。この探求の別名は「人間」または「存在」です。

 

これを理解すると、もっと簡単に言えば、見かけ上の分離した存在というものが幸福の探求そのものなのだということになります。見かけ上の分離した存在は、幸福を見つけるために何かできることがあってそれをしなくてはいけないという信念です。

 

この見かけ上の人間として、「何もすべきことはない」ということは完全に不誠実です。分離した存在というものはそれ自体が既に行為であり、現状の拒絶であり、幸福の探求です。

 

もし一人の人間として私たちが何もすべきことはないと感じるのであれば、それは自分自身を騙しているだけです。現実に直面する知性も勇気もないという不快な気持ちを、アドヴァイタという飾りでめっきしているだけです。

 

遅かれ早かれ、心の奥底で私たちの苦しみはまた浮上し、幸福の探求をさせずにはおかなくなるでしょう。

 

もし私たちが一人の人間として「私たちが何もすべきことはない」と感じるのであれば、実際には私たちは教えに全く接したことがない人よりもひどい立場にあるということになります。なぜなら、私たちは苦しんでいるだけでなく、入り組んだ理屈によって、苦痛の根源(従ってその苦痛からの出口)を見つける手段そのものの存在を否定しているからです。

 

苦しみの中にあって、通常の感覚で探求する人は、少なくとも彼の経験を調査することによって苦しみの性質というものを理解できる可能性があります。

 

もしこの可能性を否定してしまうと、私たちは立ち往生してしまいます。インドの言葉でこれを表現すると、タマスがサットヴァになりすましている、無気力や恐れが平安になりすましているということになります。

 

では、なにがなされるべきなのでしょうか。理解を求めることです。知的な理解ではなく、経験に基づいて理解することです。疑いの余地なく認識することです。無知というものは、これは経験の本質を知らないということですが、疑いの余地のない理解にたいして持ちこたえることはできません。無知に光を向けると、それは影のように消滅します。そうなるともう見つけることはできません。

 

インドでこれを「無知」と呼ばないのはそのためです。彼らはこれを「無知という幻影」と呼びます。

 

無知とそれによって生じる苦しみが本当は存在していないということを理解するために必要なことをしてください。

 

この探求の結果として、何もすべきことはなく行為をする主体も存在しないという理解が訪れるかもしれません。もしそうなれば、それはあなた自身のゆるぎない知識となり、外部からの確認というものを必要としません。

 

非常に稀な場合を除くと、マインドのレベルでの分離という観念の調査、及び肉体の中に肉体として存在しているという感覚の探究は、この経験に基づく理解には欠くことのできないものです。これ無しでは、「何もすべきことはない」とか「行為する何者も存在しない」といったことは単なる新しい観念となり、アドヴァイタは興味があふれる経験上の理解から、もうひとつの宗教に堕落することになります。