All that is experienced is experience, but there is no independent self that experiences and no independent object, other or world that is experienced. There is just the experiencing of experience, and it is ‘experiencing’ that experiences experience.

否定的な感情 (Translated)


Q. 私がお聞きしたかったのは、感情の役割に関するQ&Aについてです(The Transparency of Thingsの240〜242ページ)。

 

私はこの部分を何度も読み返しています。というのはこれが大いに助けになっているからです。考えたり観念的であるよりも、見ることや私自身でいることをただ受け入れるということを始めて以来、たくさんのエネルギーと感情があらわれてきています。時にこれは心地悪く、感情のあらわれ方はかなり身体的でもあり、ひりひり傷んだりして、全般的に不快です。私はこうしたことから様々な方法で常に逃げてきました。今は以前ほど避けることはなく、以前よりも顕著にあらわれるようになっています。あなたはこういったものは新しい感情というよりも、層になっていたものが露呈してきたものだということも言っています。これは私にとってはとても説得力があります。

 

この点について付け加えていただけることはあるでしょうか。

 

素晴らしい著書に出会えて、またこの質問を読んでいただくことに感謝します。

 

A. あなたは「見ることや私自身でいることをただ受け入れることを始めて以来、たくさんのエネルギーと感情があらわれてきています。」、そして「私はこうしたことから様々な方法で常に逃げてきました。」、それから「時にこれは心地悪く、感情のあらわれ方はかなり身体的でもあり、ひりひり傷んだりして、全般的に不快です。」とも書かれています。

 

はじめに明確にしたいことは、私たちがここで退屈、不安、恐れといったような否定的な感情について話しているということです。

 

すべてのこうした感情は、身体的な感覚に精神的な要素が加わったものと、明確であるにせよないにせよ分離している「私」が常にその中に存在している思考とで構成されています。

これらの二つの要素、マインドの「私」という思考と身体の「私」という感覚は、無知の二つの面です。私は分離しているという信念と、私は分離しているという感覚です。

 

この二つのうちでは、私は分離しているという感覚のほうが圧倒的に大きな要素です。それは不快な感覚としてあらわれ、もっと微妙なところでは、椅子に座ったり目を通して眺めたりというような身体の中で身体として自分が存在するという見たところ当たり障りのない感覚としてあらわれます。

 

今回の取り上げ方では、マインドのレベルで、私たちが抱いている「自分は分離した個人である」という信念を調べます。そしてそうした信念を裏付け立証しているように見える身体レベルでの感覚を探究します。

 

あなたが触れたような感情はまさに不快であり、それゆえ私たちはそこから逃げようとします。そうすることで、そうした感情を十分に感じることを避けます。このため、私たちの真実の性質というものを知的に理解したとしても、分離の感覚は通常そのままずっと後まで残ります。私たちは無限であると知っていたとしても(または少なくとも無限であるという可能性を認めていても)、制限されて分離しているように感じます。

 

不快な感情から逃避するための二つの主な手段は、思考と行為です。不愉快な感情に直面したとき、思考や行為に戻ることで、感情または身体のレベルにある分離の感覚は調べられずに放置されることになり、そのままの状態であり続けます。

 

したがって、「私」という感覚にとって身体は安全な隠れ場所なのです。発見されることはたまにしかありません。

 

しかし、真理を求めるどこかの地点で、そして明らかにあなたの場合にはあてはまりますが、逃げようとも変えようとも操作しようともせずにこうした感情に直面する勇気と正直さを私たちは持ちます。

 

最初に気がつくことは、否定的な感情というのはたくさんあるということです!でもやる気を失ってはいけません。実際のところそれほど沢山あるように見えるのは、ただ私たちがそれらを抑圧したり避けたりすることを止めたからです。私たちはこの謎めいていて区別ができない、以前は避けていた感情の塊があるということに気付いてくるというわけです。

 

これらの感情が、身体的な感覚と、分離した存在である「私」を中心にして展開する思考やストーリーとで構成されていることを明確に理解してください。

 

いつかの時点で、私たちが分離した存在であるという信念を、私たちは個人でも制限されたものでもないのだということを示す経験上の証拠が無いということが完全に明確になるまで、十分に調べてみる必要があります。

 

でも、いまは無知の感情の側面を扱っています。信念の側面は別に扱います。

 

いまはただ、私たちとは制限されてもいないし分離してもいないものであるという可能性にマインドのレベルで柔軟であってください。そして後で調べるためにその側面は今は置いておいてください。

 

不快な感情ということに戻って、それに伴いそれを支えている信念体系がなければこうした感情は単なる身体的な感覚にすぎないということを理解してください。

 

これらの身体的な感覚が完全に中立であることをみてください。それ自体ではそれらは好ましくも嫌でもありません。それらはあなたの中に―身体としてのあなたではなく、これらの言葉をみたりまさにこの瞬間に経験されている他のことを経験している<気づき>や<意識>であるあなたの中に―現れている感覚の小さな振動です。

 

この中立的な感覚を完全に受け入れてください。雨や交通の音があなたの中にあらわれるように、これらの感覚もあなたの中にあらわれます。それはそれがその中であらわれている<気づき>や<意識>には決して影響しません。つまり、それはあなたに決して影響しません。それにはあなたを支配する力は全くありません。

 

あなたがそれであるところの<気づき>や<意識>のオープンで何事も受け入れる空間と、その中で起こるすべてのこととを明確に区別してください。このことがいったん明確になると、こうした身体的な感覚は何の課題でもなくなります。それはそれがしたい通りに自由に現れ、変化し、留まり、消え去ります。

 

私たちは単純に、すべての身体的な感覚がその中で現れる<実在>としての立場を意識的にとります。私たちはこうした全ての感覚―それらの存在は<気づき>又は<意識>である私たちに全く依存しているわけですが―そうした感覚から完全に自由で独立しています。

 

この区別が単に理論としてではなく経験として明確になると、身体やマインドや世界の見かけと、それがその中で現れる<気づき>又は<意識>との関係をもう一度考えることができます。この点についてはまた後日。