All that is experienced is experience, but there is no independent self that experiences and no independent object, other or world that is experienced. There is just the experiencing of experience, and it is ‘experiencing’ that experiences experience.

存在と探求 (Translated)


Q. あなたは、私たちがこの探究をする際に微妙に隠された意図を持っていてはいけない、何かから解放されるために行ってはいけないと常に言います。これがどうして可能なのか私には分かりません。特に、マインドは何かをしてはいけないという場合には必ずそれをしてしまうものです。

 

私がこの探究をするのは、何かを取り除くため、幻想や分離した「私」というこの感覚から解放されるため、それと関係した苦しみや絶望から逃れるため、そしてすべてのことから自由になるといったことのためです。そこにはそれがどんなに微妙なものであったとしても、常に隠された意図があります。

 

あなたの力添えと思いやりに深く感謝します。

 

美しい月光の夜にスイスより心をこめて

ピーター

 

A. 分離した「私」がそれ自身のために何かをなしとげようとする場合―それが世俗的なものであってもスピリチュアルなものであっても―、そのことは当然ながら分離した「私」を強化します。

 

分離した「私」から解放されたがっているのは分離した「私」です。

 

分離した「私」そのものが探求であり、それが幸福を覆い隠しています。探求は「私」が行うなにかことではなく、「私」そのものが探求なのです。

 

遅かれ早かれ私たちはこの探求そのもの―単純により良い対象を求め続けるよりもむしろ何かから自由になろうとすること―を問題にするようになります。

 

そして、探求している存在から解放されようと試みるかわりに、探求している存在を見つけ出してそれが本当に何であるのかをじっくり検討しようと決めます。ところがそれを見つけようとしても、それは無理です。存在していない存在を見つけることはもちろん、それから解放されることなどできるでしょうか?

 

いいかえると、苦しみを終わらせようとすること、苦しみから自由になろうとすることは、まず苦しんでいる存在が確かにあるということを前提にしていて、その信念によってその存在と苦しみは必然的に永続することになります。

 

分離した「私」が実在するとみなされる限り、私たちがそれから解放されようとすることは避けられません。これは存在とそれがその苦しみを終わらせようとする探求によって起こる悪循環であり、終わりなく無限に続くものです。

 

どこかの段階で、通常は調べることによって、その存在が実際は存在していないことが明らかになります。この段階では探求と苦しみはすぐには終わらないかもしれませんが、徐々に終わりに近づき始めます。

 

ただし、探求が非常に微妙なものであり、私たちのほとんどが感じているよりもはるかに微妙であるということについてはあなたの言う通りです。探求の細かい層の本質を感じ取るのに必要とされる感受性といったことについては、メールで説明するのは困難なことです。私の経験では、それは徹底的に誠実で黙想的な道―ある段階で合理的なマインドには届かないような深さに達する道―です。

 

陽光のあふれる英国より心をこめて

ルパート