All that is experienced is experience, but there is no independent self that experiences and no independent object, other or world that is experienced. There is just the experiencing of experience, and it is ‘experiencing’ that experiences experience.

唯一実在する<実在>の「私」 (Translated)


<p>Q. 私がもがいているのは、「私という思考」とその源泉を探し求めるということに関係しています。ラマナ・マハルシの本をこれまで読んできましたが、それらには「私という思考」の源泉を探求せよと書いてあります。私は、ラマナの言う<真我=自己>であるその源泉を見つけようとして堂々巡りをしているような気がします。</p> <p> </p> <p>A. 「私」という思考は物体であり、思考です。</p> <p> </p> <p>「紅茶が飲みたい」という思考がその源泉を探求することができるでしょうか?できません!</p> <p> </p> <p>「私は分離した存在である」という思考がその源泉を探求することができるでしょうか?できません!</p> <p> </p> <p>「私」という思考は、単に「私は分離した存在である」という思考です。つまり、物である「私」という思考は、その源泉を探求することはできず、これはテーブルや椅子がその源泉を探求できないのと同じです。</p> <p> </p> <p>従い、「私」がその源泉を探求することについての質問は、「私」というのは選択したり探求したり行為したり決定したりすることができる存在である、と私たちが信じていない限りは成立しません。</p> <p> </p> <p>私たちというのは選択し探究し行為し思考し決定する「私」なのだと信じるとき、私たちにできる最善のことはその源泉を探求することだ、というのは確かにそうです。</p> <p> </p> <p>ただ、私たちがこの探求をすると、見かけ上は不在のように見える源泉から切り離され独立している「私」といったものは存在していないのだということを発見することになります。</p> <p> </p> <p>映画で通りのシーンがスクリーンに映っていると想像してください。「私」を探求することは、映画の中で登場人物が通りを行ったり来たりしてスクリーンを探しているのと似たようなものです。</p> <p> </p> <p>それは、見かけ上の「私」(そして他の見かけ上の全てのものごと)は、架空の「私」が探求しているまさにそのものからはじめから作られているということです。言い換えると、見かけ上の「私」がその源泉を見つけるのではなく、「私」は源泉のなかに溶解するのです。</p> <p> </p> <p>別の言葉で言うと、見かけ上の私ははじめから<実在>の真の唯一の「私」なのですが、自身が<実在>ではない他のものであるという信念によって覆い隠されているように見えるのだということになります。</p> <p> </p> <p>本当は、架空の「私」がその源泉に溶解するということでさえありません。なぜなら、そもそも実在の真の「私」以外には何も存在していないからです。</p> <p> </p> <p>このことが明確に理解されたとき、本当の「私」を探そうとする試みは自然に終わり、見かけ上の「私」は唯一で真の「私」としての姿を現します。</p> <p> </p> <p>Q. 私はさらに、ニサルガダッタ・マハラジの「私は在る」に留まって他のすべてのもの(思考、感情など)を否認するという教えでも苦労しています。私のマインドも私も「私は在る」に留まることができません。すべてを否認しようとすると、追い詰められているように感じます。</p> <p> </p> <p>A. あなたは完全に正しく、見かけ上の「私」は「私は在る」にとどまることはできません。「私は在る」ということが、そこに留まったり留まらなかったりできる何かであると考えているのであれば、そのような「私は在る」は物(対象物)であるに違いありません。見かけ上の「私」(それは思考です)が訓練して集中できるようになったとしても、その対象は「私は在る」と呼ばれる物(対象物)にすぎません。それは心理的なひとつの状態でしょう。</p> <p> </p> <p>本当は、「私は在る」に集中する必要も、そこに留まる必要もありません。あなた(どんなあなたであるとしても)は今存在していないのですか?この質問に対する「存在しています」という答えは、あなた自身の存在の確かさからやってきます。別の言葉で言うと、あなたはあなたが存在しているということを知っていて、私は私が存在するということを知っています。</p> <p> </p> <p>また言い換えると、「私は在る」は常に最初からあります。それは状態ではありません。それはすべての状態がその中で現れる何かであり、それらのものを作りだしている何かです。</p> <p> </p> <p>つまり、存在しているように見えるマインド、身体、世界のようなもののなかには既に<実在>が存在しているということです。</p> <p> </p> <p>私たちは常にそれであり、それを認識するか否かに関係なく、それなのです。</p> <p> </p> <p>私たちがこのことを理解していないかのように見えるのは、それは私たちが良く知っている私たち自身である「私は在る」を、見かけの上で覆い隠してしまう思考が生じたからに他なりませんが、実際のところはそうした思考がそれを覆い隠すということはありません。</p> <p> </p> <p>そのことを明確に理解し、あなたの<自己>としてとどまってください。</p>