All that is experienced is experience, but there is no independent self that experiences and no independent object, other or world that is experienced. There is just the experiencing of experience, and it is ‘experiencing’ that experiences experience.

言葉は教えの外層 (Translated)


Q. インドの伝統では、教えというのは、グルや師によって活性化される洞察やエネルギーが、生徒の側の能力に従って転移することであるとされます。言葉は使われたり使われなかったりしますが、いずれにしても言葉はメインの器ではありません。

 

私は探求の道にある他の人たちとのやりとりを楽しんではいますが、たいていはそれは誠実な自己探求から、さまざまな見解が戦う戦場にかわってしまいます。コメントをいただけますか?

 

A. 言葉は教えのメインの器ではないということについて、あなたの言うことはもっともです。言葉は教えの外層です。

 

とは言え、言語には、一連の抽象的な音の集まりであるということよりもっと様々なことがあります。たとえば、私たちはただ「ハロー」と言うときにも、無数の言い方があることを知っています。そうした異なる言い方は、言葉に深さと意味を加えます。というより、言葉そのものよりも、その言葉をどのように言うかということの方に、本当の重要性があります。同様に、理解の本質を伝える師や教えには、多くの他の側面があります。

 

そういった微妙な表現方法といったことよりも更に大きく影響しているのは、その言語が生じるもととなっている愛と理解です。言葉がこの静寂から生まれるとき、言葉はいわば静寂を宿していて、聞く人のハートにはっきりとその静寂が届けられます。聞く人は静寂の種がハートに蒔かれたことに気づいてさえいないかもしれません。後になってそれが私たちの中で成長しはじめたとき、何かが変わったという事実にはじめてマインドが気づきます。それを知る必要はありませんし、むしろ種がどのようにいつ蒔かれたのかということを知ることはできません。

 

それは恋に落ちることに似ています。なぜあの特定の顔またはあの特定の笑みがこんなに激しい愛を呼び覚ましたのだろう?そんなの知ったことじゃないし、構うものか!です。

 

そして、この愛が私たちの中で呼び覚まされたとき、それはずっと常に知っていたけれども一見忘れていたような何かではなかったでしょうか?この愛を、最も親しみがあって最もよく知っていることとして私たちは認識するのではないでしょうか?私たちが生きているのはこのためであり、その人のためなのではなくこの愛のためである、ということを知っていたのではないでしょうか?

 

教えや師についても同じです。教えや師の何が、この絶対への愛を目覚めさせるのでしょうか?私には分かりません!外観や言葉やしぐさがどうしてハートをとろけさせることができるのでしょうか?私には分かりません!

 

私たちがティーンエージャーのときに愛は恋人次第だと感じたのと同じように、この愛は師次第であるように最初は見えるかもしれません。ただ時間がたつにつれ、師や教えが目の前にないときもこの香りはいつまでも残るようになります。たぶん、師や教えのことをただ考えるだけで、ハートの中にあるこの愛が再び目覚めるでしょう。

 

やがて、師や教えのことを考えることさえ必要がなくなります。この愛は自身の手により自己に目覚めます。というよりも、それは常にそのようなものであったのであり、師や教えや恋人や子どもは、見かけ上の存在をハートに戻らせるためにこの愛がとったただの形だったのです。

 

これは、師との関係を通して道を歩む人たちのためにだけ書かれました。これが全ての人の道だということではありません。

 

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ここのような公開の討論の場で起こる言葉のやりとりと、自己探求が意見同士の戦場になってしまう可能性についての質問に移りますが、このようなことが言えると思います。このような公開の討論の場というものに限界があることは確かですが、決してこうした場が無効であるというわけではありません。

 

私には他の場についての経験がほとんどありませんが、このグループのたくさんの方との非公開のやりとりから考えると、ここで起こっていることは独特なことなのだという印象を持っています。

 

百を超えるQ&Aの中で、ただ知的なだけのものは一握りしかありません。実際のところ、私たちのやりとりの奥行き、寛容さ、率直さ、誠実性に私は非常に感動していますし、正直にいえば、このような公開の討論の場でどれだけ多くのことが伝わるかということに驚きを感じています。

 

やりとりの中で自分の気に入らない部分があるのであれば、ただ単にそれを気にせずに他へ目を移すべきでしょう。ただ自分用ではなかったということです!全員がここで伝えられていること全てに関心を持つということはないでしょうし、すべてに目を通す必要もありません。

 

自身の経験と共鳴する一部の対話を選んで、他は放っておいてもいいのです。他の人との間で問題を抱えているとき、私たちは戦場に立ち入ることになってしまうのです。